競争原理 |
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指導員 上地 正昭 |
2008年5月18日 |
まもなくオリンピックが始まりますね。毎度の事ですが、同じ武道の柔道やテコンドーの試合を観ると、スポーツとして物差しを明確にした事による、分かりやすさや娯楽性などの美点もさることながら、ルールという共通の制約を設けたからこそ進化した様々な すばらしい技術に感動を覚えますよね。 スポーツに限らず人間は人生の中の色々な土俵で競うことによって、お互いに切磋琢磨することを日常的に行っているわけですが、現代社会では、そのような競争ががあまりにも多くて、うんざりする事もありますよね。そんな時は「ナンバー1じゃなくてオンリー1」といった唄に癒されたりするのですが、意味のあるオンリー1はナンバー1であることが多いのが現実だったりもします。 例えば、人生の前半には、誰もが経験する共通の競争として学校での勉強や部活動があるわけですが、これらは社会に出るために必要な知識や経験を習得する目的とは別に、各人の能力や努力の度合を計るひとつの目安として使われており、街でブラブラと遊んでいる中学生と、真面目に勉強や部活動で頑張っている中学生とを比べた場合に、高校受験の際にスポーツなり勉強なりで頑張った人が評価されたりするわけですね。 このような競争が十代の頃には否応無しに発生し、我々の人生を決めるひとつの大きな要因となっているわけですが、ふと自分を振り返ってみると、十代の頃には目的意識が乏しく、何になりたいとか、一番になりたい、などのモチベーションが私にはあまりありませんでした。そのため、特に競争に勝つなどという執着もなく、マンガやゲームなど自分の興味のある娯楽に多くの時間と労力を割いていた記憶があります。 そのような状態から変化があったのは20歳を過ぎて(大学の四年生ぐらい)からで、本当の意味で自らの意志で自分のやりたいことを決め、そのための努力を色々行うようになったと記憶してます。我ながらなんとも遅い精神的自立だと自覚しておりますが、私の場合この時点から真の意味での人生の競争が始まったのだと認識しています。 一方で、社会に出ると、何が良くて、何が勝ち負けなのか?段々とそれがグレーになってゆきますよね。所謂お勉強ができるだけでは通用せず、求められる能力の数も種類も増え、物事の尺度が複雑になってくるわけです。多くの人がオンリー1となれる良い要因となる場合が多いのですが、時に自分の努力や能力が直接結果に結びつかないことがあったり、努力不足の自分に対する都合の良い言い訳や逃げ道にしたりすることもあります。 人生のどのタイミングで、目的意識に目覚めたり、新たな事にチャレンジしようとしたりするかは人それぞれですが、年をとればとるほど複雑で困難な競争が待っているのが実社会のようです。そのような中、スポーツ(競技)の世界は、曖昧性が排除された弱肉強食のシビアな世界でありつつも、自分の努力と能力が、そのまま結果に顕われる大きな美点をもった世界でもあるかと思います。そして、スポーツであれば競争の中で追い込まれた時の真の自分の姿を簡単に確認することができます。緊張(プレッシャー)に追い込まれた時の自分。練習の負荷(ストレス)に追い込まれた時の自分。恐怖や敗北感に襲われた時の自分。窮地に追い込まれた時にこそ、その人の本質が現れますよね。試合の中では体ひとつで勝負するしかなく、どうしようもない敗北感を感じる事もあれば、自分だけの力で勝ち取った勝利による特別な充実感を得たりもするわけです。 とかく競争から逃れる事のできない現代社会。競争に勝つ事は本来目的ではなく、自分を磨くための手段であるのに、どうしてもそれを見失いがちです。だからこそ、少なくとも空手の取り組みにおいては、競争に囚われるわけでなく、またそこから逃げるわけでもなく、、上手く自分を知るため、高めるためのきっかけとして利用してゆきたいものですよね。 題名と少し乖離したとりとめのない文章となりましたが、要は首都圏大会や他の大会に積極的に参加しましょう!ということでございます(笑)。
さて、今回ご紹介するホームページは、都内のとある空手道場のページです。 |