新しき春に、生きる力を  

副館長  平尾 裕子

 2010年4月12日


 我が家では
新高校生、新大学生と入学の春を迎えましたが。
自分まで、新本部長というスタートを切ることとなりました。 

空手を始めて、11年目を迎えました。

どうして
続けてきたのでしょう?
好きだから、
どうして好きなのでしょう?
すべてがわからないから・・??? 

正直に打ち明けると
一通りの動きを覚えたころ(茶帯でセーサンを覚えたころだと思います)
もっと他に稽古ないのかな?
新しく何か覚えることはないのかな?
と、もの足りなく感じた時期がありました。

初段の審査を受ける頃には
その意識はぶっとんでいたと思いますが 

いまだに
その感情を思い出すと恥ずかしい限りです。 

覚えることに何の意味があるというのでしょう?
身体で表現するという言葉だけでは表せない
心までも表すことが可能であり
その心を成長させることに挑戦し続けているのではないでしょうか?

上地流独特の鍛えについて
どうしてそんな痛い稽古をするのか
と聞かれることがあります。 

確かに痛みに堪えてはいますが
鍛えているのは身体でしょうか?
私は心だと思います。

何事にも動じない心とは言いますが
動じます。
全く痛みを感じないわけではありません。

そんな稽古の意味を
私はこう考えることがあります。

女性や子供(力のない人)が
危険な目に遭ったとき、
自分から反撃できるかどうかは関係ない。
なんの攻撃の出せなくてもいい

あきらめない心と
もし、ダメージを受けたときに
堪えることができたら
命を守ることができる、と。

突然相手にバーンと殴られたとします。
普通、気持ちがやられます。
もうだめだ・・と
もし、
その一撃を堪えることができたら
何ひとつ反撃できなくとも
次の瞬間、逃げるチャンスが生まれるかもしれないのです。
攻撃できなくても、ピンチから逃れることができたら
命は守られるのです。 

痛みを知らなければ
堪え方を知らなければ
心はやられてしまいます。 

相手に勝つのが強いのではなく
相手に負けないのが強い心です。
もちろん自分の弱さにも負けない強さです。 

サンチンの鍛えは心の鍛えです。

強い心は生きる力となります。
私たちの上地流空手は生きる力を育てる空手だと思っています。 

空手を学ぶ子供の母としても
子供達に伝えたいと思っています。 

ひとりの人間としても
自分の思い通りにならないときに
もがくばかりでなく、あきらめるでもなく
今は仕方ないと、堪えることもあります。 

かわしてかわして
反撃することなくゆる〜く生きているようでも
ここぞというときに行動できるような
硬軟自在な生き方を目指して
修行の道は続きます。

 

 

 

ホーム