『唐手道』とは

館長  藤本 恵祐

 2010年12月26日


寒い毎日が続きますが、会員の皆様は元気に稽古に励んでおられることと思います。

さて、今回はちょっと固めのテーマで「唐手道」について私の考えをご披露させて頂きます。

(我が協会では、上地流の源流が中国福建省に由来することから「空手」ではなく「唐手」という文字を使います) 

現在湘南修武館には、様々な動機や目的で入会された会員が200名以上在籍されています。その中で、我が道場に限らないことですが「武道を通じて子供に礼儀作法を学ばせたい」という保護者の皆様の声をよく耳にします。 

確かに、道場で唐手を学ぶことにより、指導者や先輩との人間関係を築く過程で、人として最低限必要な礼儀作法は自ずと身に付くのかも知れませんが、それはごく一部の機会に過ぎません。
礼儀作法を万全に身につけるのであれば、形だけでなく「心が伴うこと」が大切であり、そのためには、先ずは家庭、そして学校や地域社会などでの教育が欠かせ
ないと思います。

そのように、唐手道に限らず、柔道、剣道、合気道など、日本の武術には基本的に「道」が付きますが、私はそのことによって、それぞれの武術が持つ本来の存在意義や特性が抽象化され、同時にその精神性が過度に強調され過ぎているのではないかとの印象を持ちます。 

つまり、武道を学んでいる者は必然的に礼儀作法が身につき、人間修養も十分に積まれている  武道を学ぶ者は他者に対しても常に正しく模範的で、立派な人間でなければならない、という観念(錯覚)です。

確かにそのような存在の人間になれることは理想ですが、だからと言って武道を学ぶことだけでは到底その境地に立つことは難しく、道場だけでなく、家庭や社会で様々な経験を積み、荒波を乗り越えてこその人格形成ではないかと思うのです。 

私は、このコラムの掲載第1号として「武道空手と武術空手」というテーマで投稿していますが、我が湘南修武館の基本スタンスは、「唐手道を学ぶのではなく、唐手術を学ぶ」です。
過度の精神性を唐手に求めることは、本来護身のための一撃必殺の力を秘めた武術としてのその本質を去勢することに繋がります。
 

「平和な時代に何を言ってるんだ。いまや空手は世界に普及した競技スポーツ。形式美も追求しなくてはいけない時代になったんだ」という声が私の耳にも届きますが、残念ながら私の答えは「ノー」です。(私はその道は歩まないという意味)

 現代は本当に平和な時代なのでしょうか?人生の長い時間をかけて競技=スポーツのために改編された武術ライクな空手だけを学んで、それだけで本当にいいのでしょうか?唐手が琉球で生まれ育った時の基本理念や存在意義=徒手空拳の武術を我々は捨て去って後悔しないでしょうか? 

競技スポーツ化した「空手」を信奉するあまり、今や世界レベルの大会ですら寸止め中心の攻防で、打撃や受け技が実際効果があるのかどうかも不明、型試合に至っては、空手衣のデザインや髪型、果ては化粧の具合までが結果に影響すると公言して憚らない選手も存在する始末です。 

私は、敢えてこの場を借りて警鐘を鳴らしたいのですが、競技=スポーツ空手では、いざという時にほとんどのケースで(特に相手が刃物などを持っている場合)、自分の身を護り切ることは難しく、また場合によっては、空手を学んでいると言う過信から、かえって自身を危険な立場に置いてしまうこととなりかねません。 

もう一度強調しますが、「湘南修武館は実戦で自身の命を護れる武術としての上地流を学ぶ道場」です。もちろん、師弟・先輩後輩の良好な信頼関係は技術伝承の大切な要素ですので、必要な礼儀作法やルールは守って頂きますが、道場で学んで頂きたい本質は、格闘術としての上地流唐手なのです。 

一見矛盾に感じられるかも知れませんが、実戦(ストリートファイト)でも十分通じる技術、体力、気力を身につけてこそ、本当の人間陶冶と人格形成に繋がるのではないかと思います。何故なら、自分を鍛え抜き、一撃必殺の技を修得した人間は、好んで他者と争ったり、危険な場所に敢えて身を置くような無益なことはしないでしょうから。 

私のスタンスに異論や違和感を持たれる読者、会員の皆様も多数おられることかと思いますが、私が30年かけて唐手を学んできた率直な意見としてご披露させて頂きました。 

稽古や懇親の場で、今回のテーマについて会員・保護者の皆様と意見交換できることを楽しみにしております。

 

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