行ってきました大阪西成へ

館長  藤本 恵祐

 2012年12月16日

年の瀬も押し詰まりました。
1年が過ぎるのは本当に早いものです。

さて、先日仕事で大阪に行く機会があり、合間を縫ってかねてよりの懸案であった「大阪西成・鶴見橋道場」跡地を探訪してきました。今回はその顛末を少々・・・。  

地下鉄四つ橋線の花園駅を降りたらすぐに鶴見橋通り商店街入り口が見えます。
なんでも日本で二番目に長いアーケード式の商店街だそうで、戦前に近隣紡績工場に勤めた方々のお腹を満たすべく、食材や日用品を安く提供するなど、往時はかなりの賑わいだったそうです。

 この鶴見橋通り商店街近辺に、昭和12年、和歌山から移住された上地完英先生が道場を出されたと記録されています。福建省福州 ⇒ 沖縄 ⇒ 和歌山 ⇒大阪西成 ⇒ 兵庫尼崎 ⇒ 沖縄と、上地流唐手道発展の軌跡を辿る調査活動で、唯一訪問できていなかった場所でもあります。  

さて、夕刻から調査を開始して、諸般の事情で私に与えられた時間は2時間余り。
先ずは商店街のお店や通りすがりの古老と思しき通行人の皆さんに聞きまくることからスタートしましたが、全く手がかりは掴めません。困惑していると、以前ネットで西成に沖縄県人会館があったのを思い出し、地元に詳しいに違いないお花屋さんに飛び込みその所在を尋ねますと、商店街から歩いて10分程度の場所だとわかり急行しました。

 がしかし、立派な県人会館もさすがに平日夕刻は無人の様子。仕方なく会館掲示板にあった県人会役員さんの連絡先を写メし、とぼとぼと商店街に引き返す途中、あるお家の表札を何気に見ると、県人会副会長・Hさんと同じ苗字。一瞬躊躇いましたが、えーい、チャイムを押して突撃インタビューしてみよう、といういつもの怖いもの知らずの性格が背中を押して、「ピンポン」の音色が響きました。  

すると後方から、「何かご用ですか?」と声がしたので振り向くと、そこには自転車に乗ったHさんがおられました。かくかくしかじかで調査に来た旨を伝えると、ご親切にも、近隣で最長老のお婆さん(Kさん、大正6年生まれ)の連絡先とご自宅を教えて頂き、お礼の言葉を述べて直ぐに行動開始。辺りは夕暮れで暗くなりかけていました。  

Kさんのご自宅に着きましたが、残念ながらお留守の様子。途方に暮れて仕方なしにまた商店街に戻りました。はやり、簡単には昭和12年の情報を探し出すことは無理か、と悔しい思いに駆られ、花園駅に引き返そうかと思った矢先、商店街から少し横道に入ったところに酒屋さんがありました。お酒の立ち飲みもできるようです。  

小雨も降ってきたことだし、ダメ元で飛び込んで、次回に備え情報収集するか、と気持ちを切り替え飛び込むと、「やあ、さきほどはどうも」と、県人会副会長のHさんが驚いた表情でビールを飲んでおられました。これには私もビックリです。やはり、完文先生、完英先生が、「おいまだ諦めるのは早いぞ」と私を激励されているのでしょうか・・・。  

さっそくKさんにお会いできなかったことを報告し、私もビールを注文して雑談すると、酒屋のご主人が興味を示され、昔のことを思い出すうちに、「実は近隣に昭和35年くらいまで沖縄唐手の道場があり、そこの先生はU先生という方で、後日和歌山へ戻られたと記憶しています」と何気にぼそり。  

なに、和歌山!?・・・私の胸の中で心臓が高鳴るのがわかりました。もしかすると、U先生とは、完英先生が尼崎に転居された後の後継者か関係者かも知れないと・・・。  

そこで、上地流の歴史や完文先生の伝記を執筆するための取材であることをお伝えすると、そんなことなら、きちんと地元の長老に聞き取っておき、現地にも案内しますから、また次回機会を作って鶴見橋通りにお越しくださいと、Hさんと酒屋のご主人に励まされ、感動で胸が一杯になりました。  

私は信じます。「思いは必ず通じる」と。  

さて、次回訪問時には一体どんなビックリが待ち受けているか・・・。
期待にわくわくしながら、鶴見橋通りを後にしたのでした。
 

(完)  

写真は公式HP「パンガヰヌーン拳法研究会」コーナーにUPしておきました。

 





 

 

 

ホーム