『人に歴史あり』 |
|
館長 藤本 恵祐 |
2014年9月23日 |
空にはトンボが舞い飛ぶ季節になりました。
さて、既にホームページでご覧になった方も多いと思いますが、先日、神戸にある「移住ミュージアム」に行って来ました。http://www.kobe-center.jp/index.html
ここは昭和3年にブラジル移民の皆さんが渡航前に健康診断や移民の事前教育を受ける施設として建築され、第二次世界大戦や阪神大震災も奇跡的にくぐり抜け、現在は記念資料館として保存・活用されている施設です。(耐震補強済み)
上地完文先生の伝記でも触れましたが、正式にパンガヰヌーン流唐手術研究所が設立される前から入門していた上里玄明氏(完文先生が将来を嘱望した門弟であったとされる)や私の祖父母が昭和初期にブラジルに移民で渡る際、実際にここから出発しています。(祖父母の叔父、叔母は既に大正時代にブラジルに移民として渡っています)
私は幼少の頃祖父母と一緒に暮らしていましたが、実家の納屋に大きな柳行李がいくつかあり、その中にブラジル移民時代の写真や財布、衣服等が大切にしまってあったことを記憶しています(残念ながらその後廃棄)。そのような移民の皆さんが使った品物や記録写真が展示してあるほか、当時のベッドルームなどが当時のままの状態に再現・展示されていました。
どんな思いで異国の地を目指したのか・・・。当時は神戸からブラジルのサントス港まで約2ヶ月の船旅。日本の客船の3等客室に約1000名もの移民がひしめき、月に1〜2便のペースで出航したそうです。その模様は第1回芥川賞受賞作である「蒼氓」(石川達三・昭和10年)に詳しく記されています。
そして、そのミュージアムの中にある財団法人日伯協会を訪ねると、移民の皆さんの渡航記録がデータベース化されていることが判り、早速祖父母の氏名で検索してもらうと、何と一発でヒットし、1933年(昭和8年)2月17日に「アラビア丸」という船で神戸港を旅立ったと記されていました。
それではと上里氏の氏名で検索すると(名前が1文字違っていますが、データベース登録をブラジル側で行ったため、入力誤りが多少あるとのこと)、こちらもまた一発でヒットし、一家5人で渡航されていることが判りました。そして何と、私の祖父母と同じ年の1933年11月30日に同じ「アラビア丸」でブラジルに渡っておられたのです。
完文先生の口伝によると上里氏の渡航は昭和5年以降とされていますので、ほぼ間違いないと考えられ、その発見と偶然に思わず鳥肌が立ってしまいました。
「人に歴史あり」。どんどん歴史を深堀りすれば、人と人とがどこかで繫がっていることが判り、これからの未来を如何に生きて行くべきかのヒントと勇気を与えてくれるような気がします。
昨今「グローバル時代」ととかく話題になりますが、明治の晩年からブラジル移民はスタートしており、その頃から既に日本は本格的なグローバル化を歩んでいたと言っても過言ではないでしょう。
皆様も是非一度神戸を訪ねた際はお立ち寄りください。JR元町駅から徒歩5分です。
※写真は当時ブラジル移民を呼び掛けたポスターです
(追伸)
本稿を書き終えた後にブラジル移民関係資料を調べていたら、1908年(明治41年)に日本で最初の移民団781名を率いてブラジルに渡航した移民斡旋会社の責任者が、私の母校(高校)OBだったことを知り、改めて深い因縁を感じています。
|